戦争遺跡雑報

2008年4月 4日 (金)

朝日新聞関西版 2008年4月2日 魅知との遭遇 撮ってびっくりベスト3発表! 背中に、ふと誰かの気配が… 友ケ島砲台跡(和歌山県)

魅知との遭遇 撮ってびっくりベスト3発表!

背中に、ふと誰かの気配が… 友ケ島砲台跡(和歌山県)

20080402012008040202 旧日本陸軍の残した「戦争遺跡」の友ケ島第3砲台。こけむす石畳、うっそうと茂る木立。暗い弾薬庫内では、シャッター音、枯れ葉を踏む音、自分の呼吸の音だけが響く。ふと誰かの気配を後ろに感じ、何度も振り返る。冷や汗が背中をつたう。

 木漏れ日の具合は不満でも、とっとと撮影終了して逃げ出したい心境だった。でも、ここで粘らないと「お前、手を抜いたな」とデスクになじられるのは経験上明らかだった。やっぱり友ケ島は1人で来るところではない。結局、紙面を飾ったのは、紀淡海峡に面した第2砲台。西日を浴びて、美しい。第3砲台とはまったく趣が異なっていた。(杉本康弘=写真担当)

<こぼれ話> 島内では観光用に放されたシカやリスが野生化し、あちこちで姿を見せる。昨年7月の取材時には、ある軍事施設跡でシカの死体に出くわして、思わず声をあげてしまった。奈良県在住なので、生きたシカは見慣れているのだが。展望台や灯台から見下ろす紀淡海峡の絶景は一見の価値あり。(今井邦彦)

朝日新聞 関西 2008年4月2日

http://www.asahi.com/kansai/entertainment/michi/OSK200804020033.html

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河北新報2008年03月07日 B29、航続距離超えなぜ飛来 東北空襲の謎に迫る著書出版

B29、航続距離超えなぜ飛来 東北空襲の謎に迫る著書出版

20080306
 1945年3月10日の東京大空襲と同じ日に東北各地で散発的に起きた「東北空襲」は、当初から米軍が偵察や攻撃目的で東北に狙いを定めたものだった―。戦争遺跡の調査活動を続ける岩手県花巻市の元高校教諭加藤昭雄さん(62)が、謎が多い東北空襲の実像に迫る内容の著書を、空襲の日に合わせて10日、出版する。

 著書は「東京大空襲の夜 B29墜落の謎と東北空襲」のタイトルでA5判、253ページ。出版元は本の森(仙台市)。

 東北空襲は青森県上北郡、盛岡市、仙台市、いわき市の4地域であり、焼夷(しょうい)弾投下によりいわきで16人、盛岡で4人が亡くなるなど大きな被害が出た。

 散発的だったこともあって、約10万人が亡くなった東京大空襲の陰に隠れ、体系立てた研究はほとんど手つかずだった。これまで「東京大空襲に向かうB29大編隊の一部が迷い込んだ」との見方があった程度で、詳細は謎に包まれている。

 加藤さんは著書で、東北空襲に関係したとみられるB29、3機が蔵王連峰の不忘山(1、705メートル)に墜落した事故を詳細に分析。山形市内で墜落機の備品を見たという男性(埼玉県在住)から独自に得た「残骸(ざんがい)の中にあった東北地方の地図の主要な都市に赤丸印が付いていた」との証言を紹介した。

 その他の多くの証言や資料に基づき、「墜落機や4地域に空襲したB29は、最初から東北を偵察、攻撃する命令を受けていたのではないか」と推察。仙台、青森への飛来は、4カ月後の仙台大空襲や青森大空襲につながったとの見方も示している。

 加藤さんは40代で戦争遺跡調査を始め、現在は有志の集まり「岩手・戦争を記録する会」の事務局長も務める。

 5年がかりの調査でまとめた著書に込めた思いを、「太平洋戦争では両国とも犠牲者を出して同じ苦しみを味わった。空襲の悲劇を知って平和の誓いを新たにしてほしい」と話す。

 本に前書きを寄せた作家の早乙女勝元さん(75)=東京大空襲・戦災資料センター館長=は「東北空襲を体系的にまとめた資料は初めて」と高く評価。「B29が拠点のサイパン・グアムから往復できる距離を超えた東北へなぜ飛行したのかは今も謎で、この研究を土台に米軍資料が読み込まれ、謎が解明されることを望む」と期待している。

 本は2部構成で、首都圏に墜落したB295機の生存者にまつわる話も紹介している。1680円。連絡先は加藤さん0198(23)3883。

河北新報 2008年03月07日

http://www.kahoku.co.jp/news/2008/03/20080307t35006.htm

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2008年3月18日 (火)

毎日新聞都内版 2008年3月17日 東京・重慶・戦禍の空の下:大空襲・大爆撃訴訟を追う7

東京・重慶・戦禍の空の下 大空襲・大爆撃訴訟を追う7

 母の涙 届かない怒り、無念--“摩天楼”の街にうずもれて

 中国奥地に位置する四川省重慶市。長江(揚子江)と嘉陵江の合流点にある中央政府直轄市・重慶は西南地域最大の商工業の中心地。市中心部の繁華街には高層ビルが林立し、躍進する中国の「顔」をのぞかせる。

 その顔は日中戦争時、国民政府の臨時首都だった歴史も併せ持つ。繁華街の一角に建つ重慶大爆撃の犠牲者を追悼する「六・五隧道(ずいどう)惨案旧址(きゅうし)」。「六・五」とは1941年6月5日の日本軍の爆撃を指し、地下には大規模な防空洞(隧道)が残され、大爆撃当時の様子を伝えるほとんど唯一の戦争遺跡という。

 「あの日、隧道内は避難した市民で膨れあがり、酸欠状態でパニックとなり、何千人もの市民が死にました」

 大爆撃訴訟原告団の鄭友預さん(68)=重慶市渝中区=は旧址の前にたたずみ「六・五」の意味を語った。

 鄭さん宅が爆撃を受けたのは40年5月26日。当時、一家は祖父母、父母に兄弟4人(男3人、女1人)の8人家族。鄭さん宅は店舗兼住宅で、父接炉さん(当時35歳)は地元で有名な菓子店の経営者。前年8月にも爆撃を受け、店舗はほぼ全壊。資金を集めて修復、営業再開後の2度目の爆撃が悲劇を生んだ。

 「母(当時28歳)と私たち兄弟は避難先に向かい、父は店を守るため残りました。爆撃で店は全壊。父は逃げ切れず、爆弾の破片が左大腿(だいたい)部を直撃。血まみれになり、3日後に死亡しました。それからが大変。店は倒産、母には9歳を頭に4人の子どもの養育がのしかかってきました」

 大黒柱を失い、鄭さんの母は一日中、さまざまな仕事をこなし養育に励んだという。長男と長女は進学を断念。家計を助けるため働き始めた。

 「私は末っ子で当時1歳。母の苦労は知りません。しかし5歳のころ、近所の子どもとケンカしたとき『君にはお父さんがいない』といわれ、帰宅し母にその理由を聞いたとき、母はワッと泣き出し、理由を話してくれました。母の涙を見たのは初めてで、一番印象に残っています」

 旧陸海軍は40年5月から9月にかけ、重慶方面を爆撃する本格的な共同作戦「百一号作戦」を実施。鄭さん一家の悲劇は同作戦がもたらしたものだった。

 鄭さんは旧址の説明を終え、現場を後にするとき、厳しい口調で付け加えた。

 「爆撃は父の命を奪ったばかりか、私の一家を苦しみのドン底に陥れた。それなのに、日本政府は戦時中の無差別爆撃に、謝罪すらしてこなかった」【沢田猛】=つづく

毎日新聞 2008年3月17日 〔都内版〕

http://mainichi.jp/area/tokyo/news/20080317ddlk13040165000c.html

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