戦争遺跡ニュース

2015年6月13日 (土)

「旧陸軍工場の校舎、保存を」名城大OBら要望 (名城大学農学部付属農場本館をミュージアムへ)

「旧陸軍工場の校舎、保存を」名城大OBら要望

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名古屋陸軍造兵廠鷹来製造所本館だった名城大学農学部付属農場本館。玄関上の外壁に陸軍の「星章」の跡が残る(愛知県春日井市で)=大井雅之撮影

   
 戦時中、銃弾などが製造された名古屋陸軍造兵廠しょう鷹来たかき製造所の本館だった名城大学農学部付属農場本館(愛知県春日井市鷹来町)について、卒業生や地元住民、教授らが昨年10月、平和・産業ミュージアムとして保存するよう求める要望書を大学に提出した。

 終戦から70年を経て、各地の戦争遺跡・旧日本軍施設は消滅の危機に直面する。卒業生らは「戦争の記憶と平和の尊さを伝える拠点として残してほしい」と訴えている。

 農場本館は鉄筋コンクリート製の地上2階地下1階。戦時中は製造所全体の「司令塔」の役割を果たし、玄関上部に時計台があり、壁に旧陸軍の「星章」の跡が残る。屋上は空襲からカムフラージュするため緑化され、絶滅危惧種「イシモチソウ」などが一面に生える。高射機関砲が置かれた土盛りなどもあり、戦争の痕跡を色濃く残す。

 戦後は、名城大学が農学部を開設した1950年、本館を含む製造所の敷地の一部に付属農場が置かれた。今も農場実習や講義のために使用されている。

 同大学施設部によると、付属農場では新たな本館を現本館のそばに建設する方針で、2016年3月の完成を目指す。現本館は既に耐震補強を施され、当面は併用されるが、加鳥裕明副学長は「どのように保存していくかは未定」と話す。

 これに対し、卒業生らは「名城大学付属農場の歴史的遺構保存を呼びかける会」を結成。本館保存と、模擬原爆が同製造所に落とされたことを伝える碑の建立を求めている。呼びかけ人の渋井康弘経済学部教授は「70年の時を超え、戦中の動員学徒と今の学生がこの場所でつながっている」と話し、「軍需工場の技術が戦後、愛知の『ものづくり』を支えた歴史を伝える場所でもある」とする。

 大学で旧日本軍施設が戦争を伝える施設として保存された例は、生物・化学兵器などが開発された陸軍登戸研究所(現・明治大学平和教育登戸研究所資料館、川崎市)がある。愛知県豊川市は、機銃などを製造した海軍豊川工廠の一部で、今は名古屋大学の研究所分室になっている約18ヘクタールのうち約3ヘクタールを購入し、火薬庫など2棟を含む平和公園(仮称)を整備する方針で、18年度開園を目指す。

 市民団体「春日井の戦争を記録する会」の金子力つとむさん(64)は「農場本館は極めて貴重な施設。説明をつけて残せば大学や地域の財産になる」と語り、ミュージアムが実現すれば、住民から譲り受けた模擬原爆の破片を展示したいと願う。

 遺跡全国3万件 継承に障壁

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 市民団体「戦争遺跡保存全国ネットワーク」(長野市)によると、戦争遺跡は全国に約3万件が残る。しかし、再開発などで消えていく施設も多く、所有権の所在が不明なものや、保存の技術・費用など、継承には様々な障壁がある。

 東海3県には都市の工場を郊外の地下壕ごうに移した地下軍需工場跡が残るが、多くは荒廃したまま。岐阜県瑞浪市の化石博物館は、地下軍需工場跡を化石の見学などで活用しているが、戦争を学ぶ目的ではほとんど使われていない。

 三重県鈴鹿市の旧鈴鹿海軍航空基地格納庫は、地元住民らが2009年から保存を求め、全国から1万3000に上る解体反対の署名を集めた。しかし、市や所有者の企業などが再開発計画を進め、格納庫3棟は11年3月に解体された。

 大砲の性能試験が行われた愛知県田原市の陸軍伊良湖試験場跡は6階建ての観測塔などが残るが、地域の団体や個人が所有。劣化が進み、地元では観測塔の市への無償譲渡を模索する。地元自治会の森下田嘉治会長(63)は「保存するにも費用がかかり、地元だけで残すのは困難だ」と語る。

 終戦前日に模擬原爆

 名古屋陸軍造兵廠鷹来製造所 1941年開設。市民団体によると、終戦時は4151人が働き、うち960人以上が動員学徒。銃弾などのほか、ジェット気流に乗せて米本土を直接攻撃する風船爆弾も製造された。終戦前日の45年8月14日、米軍が原爆投下訓練用に開発した模擬原爆(1万ポンド=約4.5トン=高性能爆弾、長崎原爆とほぼ同形)が落とされ、直撃された工場が全壊するなどした。

 読売新聞 教育面 2015年1月20日
 
 http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news/20150119-OYT8T50198.html
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2010年9月23日 (木)

朝日新聞大阪本社版夕刊 2010年9月21日 大阪大、壁壊したら「奉安庫」 戦前に御真影など収納

大阪大、壁壊したら「奉安庫」 戦前に御真影など収納

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解錠作業が進められる奉安庫=21日午前、大阪府豊中市の大阪大学、筋野健太撮影

 耐震改修中の大阪大学豊中キャンパスのイ号館の壁を壊したところ、戦前に天皇、皇后の「御真影(ごしんえい)」や教育勅語を納めていた金庫型の「奉安庫」が見つかった。同大は21日午前、鍵を開ける作業を始めた。全国の学校に設置されていた奉安庫、奉安殿の多くは、連合国軍総司令部(GHQ)が1945年12月に出した神道指令で解体された。発見した同大学の廣川和花助教は「奉安庫の手前に壁を作り、65年間も見つからなかったのは珍しい」とみる。

 イ号館は28年の建築。49年の学制改革で大阪大に包括された旧制浪速高校の本校舎で、国の登録有形文化財に指定されている。1階の元校長室(約66平方メートル)の北西角を斜めに仕切っていた壁(厚さ約3センチ)をはいだところ、しっくいに埋め込まれた観音開きの奉安庫(高さ94センチ、幅73センチ)が見つかった。

 東京、神奈川で奉安殿の遺構調査をした玉川大学教育博物館の白柳弘幸学芸員は「建物に埋め込まれた奉安庫を動かすのは大変なので、手前に壁を作り、GHQから隠したのではないか」と指摘する。調査した他の学校では、建物外の奉安殿は46年までに教職員がハンマーやダイナマイトで壊していたが、動かせない奉安庫は戦後、金庫や書類入れとして使ったという。

 神戸高校や奈良女子大には講堂に奉安庫の名残の観音開きの扉が残されている。神戸市外国語大学の長志珠絵(おさ・しずえ)准教授(日本現代史)は「旧制高校や帝国大学は行政や軍とかかわって、戦争を積極的に支える役割を担っていたため、GHQの捜索を受けまいと過剰反応して隠したのではないか」と推測している。

 朝日新聞大阪本社版夕刊 2010年9月21日
 http://www.asahi.com/national/update/0921/OSK201009210065.html
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2010年3月17日 (水)

山陽新聞 2010年3月15日 防空壕跡の調査開始 尾道・因島空襲を考える会

防空壕跡の調査開始 尾道・因島空襲を考える会

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ホテル「ナティーク城山」の下にある防空壕跡を調査する中村さん(左)と青木さん

 第2次世界大戦末期の「因島空襲」を調べている尾道市因島の住民が、被災した造船所のあった島南部などに残る防空壕(ごう)跡の位置や現状の調査を始めた。7月28日の空襲の日に合わせ、報告会や防空壕跡前で鎮魂のコンサートを計画している。

 調査に取り組む「因島空襲を考える会」の青木忠さん(65)=同市因島椋浦町=と中村公巳(ひろみ)さん(68)=同市因島田熊町=は、「戦後65年を迎え、記憶の風化が懸念される。戦争遺跡として記録を残したい」と話す。

 今月4日、同市因島土生町のホテル「ナティーク城山」が立つ山にある防空壕跡を現地調査。14カ所あったとされる防空壕の出入り口のうち、コンクリートなどでふさがれずに、倉庫として使われている防空壕跡に入った。2カ所の出入り口でつながり、戦争当時からあったと思われる石やれんが積みの壁などを確認した。

 今後は住民からの聞き取りや、因島三庄町などに多く残る防空壕跡を訪ねる。

 因島空襲は1945年3月19日と7月28日、米軍機が造船所を中心に攻撃し、100人以上が亡くなったとされるが、記録や資料が少なく一般に知られていない。最近の調査で、7月28日は造船所に停泊中の貨物船など4隻が被災、船員17人が死亡したことが分かった。(以下、Webには未掲載)

 山陽新聞 2010年3月15日
 http://www.sanyo.oni.co.jp/news_s/news/d/2010031509350441/ 
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朝日新聞多摩版 2010年3月16日 三鷹の戦跡たどる(フィールドワーク)

三鷹の戦跡たどる

 太平洋戦争末期の三鷹市で、空襲で多数の犠牲者が出た4月2日を前に、市内の戦争遺跡をめぐる講座が21と23の両日に開かれる。調布飛行場などを守るため米軍機と交戦した高射砲陣地跡や軍用機を空襲から守る格納庫・掩体壕(えんたいごう)のほか、旧中島飛行機の研究所跡地に建つ大学など「飛行機工場の町」の痕跡を訪ねるフィールドワークがある。(佐藤清孝)

 戦前の三鷹は、航空機産業を担う軍需工場の町として発展した。航空機用無線機のトップメーカー・日本無線や中央航空研究所などが次々に建設され、1940年に約2万1千人だった人口は終戦時の45年には約4万人に倍増した。

 軍需工場の中でも、調布飛行場と関係の深い中島飛行機三鷹研究所は大沢地区の200ヘクタール近い土地を買収して建てられた。米本土爆撃を目的にした超大型爆撃機「富嶽(ふ・がく)」のエンジンを設計し、特攻機として使われる予定だった「剣(つるぎ)」の開発を進めた。

 一方、45年に入ると三鷹市でも空襲が激化。2月17日に米軍の艦載機が同研究所に襲来し、防空壕がつぶれ、工員4人が犠牲になった。4月2日には下連雀2丁目で29人が死亡した。

 講座は、教育研究機関や市などによるNPO法人が運営する「三鷹ネットワーク大学」の三鷹「通」養成講座の一環だ。

 講師を務める高柳昌久さん(43)は同研究所跡地の一部に建つ国際基督教大学(ICU)高校の教諭で、「武蔵野の空襲と戦争遺跡を記録する会」の幹事。研究所について関係者の聞き取り調査を進め、その成果を05年に共著で戦争遺跡のガイドブック「戦争の記憶を武蔵野にたずねて」(ぶんしん出版)として出した。

 フィールドワークではまず、保育園「椎(しい)の実子供の家」に残る高射砲陣地の台座跡4台を見学する。戦況が悪化する43年、首都防衛を目的に調布飛行場を一望できる高台に6門が設置された。45年2月17日、米軍艦載機の攻撃で兵士4人が戦死した場所だ。

 この後、同飛行場の門柱や旧特攻隊宿舎跡、府中と調布市にもまたがる都立武蔵野の森公園で保存・公開されている2基の掩体壕を見学。最後に、中島飛行機の創立者・中島知久平が住んだICU敷地内の別荘「泰山荘」や、同研究所の設計本館を改装したICU本館も訪ねる。

 23日には、午後7時から高柳さんが「飛行機工場の町 三鷹」と題して講演する。高柳さんは「戦争という国家総動員体制の中で三鷹がどんな影響を受けたのか、それを知ることで今の三鷹を見直す手がかりになれば」と話している。

 21日は午後0時半、三鷹駅近くのネットワーク大学集合。先着30人(2回の通し受講のみ、市外も可)。500円(別途バス代必要)。問い合わせは同大学(0422・40・0313)へ。

 朝日新聞多摩版 2010年3月16日 
 http://mytown.asahi.com/tama/news.php?k_id=14000001003160001
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2010年3月11日 (木)

東京新聞 2010年3月9日 旧陸軍登戸研究所の資料館計画(川崎市多摩区) 戦争加害の歴史、来月公開

旧陸軍登戸研究所の資料館計画(川崎市多摩区) 戦争加害の歴史、来月公開

昨年4月に行われた現地見学会。奥は解体が予定されている5号棟=いずれも川崎市多摩区の明治大生田キャンパスで

 川崎市多摩区の明治大学生田キャンパス。緑豊かな丘の上の大学構内に残る“戦争遺跡”は、学生にさえあまり知られていない。戦時中の旧陸軍登戸研究所の関連施設で、現在、二棟が残る。このうち、生物化学兵器が開発されていたコンクリート造の「三十六号棟」が今春、資料館に生まれ変わる。

 同研究所は陸軍参謀本部直属の組織として、中国紙幣の偽造や風船爆弾の開発など、秘密戦や謀略戦の研究・開発を行っていたとされる。戦略上、同研究所の存在は軍の法規にも記されず、終戦後も関連資料は隠匿され、所員は業務内容を口外しないよう厳命されていた。長い間注目されることなく、一九七〇~八〇年代のキャンパス整備で多くの施設が取り壊された。

 八〇年代後半に、同研究所に関心を持った地元の法政大学第二高校(川崎市中原区)の生徒らが元所員らの聞き取り調査に着手。「大人には話したくないが、若い高校生には戦時中に起きたことを伝えたい」と元研究員らが重い口を開き、細菌兵器研究の実態などが徐々に分かってきた。

 当時、同校教員として調査にかかわり、現在は明治大文学部非常勤講師として研究を続ける渡辺賢二さん(66)は「元所員の中には、戦争の加害に加担した過去を話してはいけないという思いと、研究所を後世に伝えたい思いが交錯していたのだろう」と分析する。

 同時に終戦から六十年を経たころ、同大に元所員から「登戸研究所の忌まわしい記憶が歴史から消え去ってしまうのは大変残念で、死ぬに死ねない」という手紙が届いた。その思いに応えたいと大学側も二〇〇六年、学内委員会をつくり、資料館設置の検討を始めた。

 老朽化した建物の改修や資料収集に手間取ったが、ようやく完成。「明治大学平和教育登戸研究所資料館」として、四月七日から一般公開される。同大では新年度から、登戸研究所を伝える授業も新設する。

 資料館開設準備室長を務める文学部の山田朗教授(53)は「元研究員は『(中国人捕虜を使った人体実験は)最初はいやだったが、慣れると薬の効果を試すための趣味になった』と証言した。大義名分のもと、研究者が倫理観を失った過去は、現在の研究者も教訓にしなければいけない」と力を込める。

 キャンパス内には殉職者を祭った神社や、陸軍のマークが入った消火栓なども残るが、偽札倉庫だった木造の二十六号棟は昨夏、老朽化のため解体。偽札工場だった木造の五号棟も解体される予定だが、市民団体などが保存を求めている。

 キャンパス内に点在する遺跡ガイドも行っている「旧陸軍登戸研究所の保存を求める川崎市民の会」の森田忠正事務局長(65)はこう語る。「戦争の加害者としての遺跡は全国的にも珍しい。あらためて平和を考える場にしていきたい」 (北条香子)

◆あのとき

 明治大学は二〇〇七年六月、生田キャンパス内に残る旧陸軍第九技術研究所(通称・登戸研究所)の現地見学会と講演会を初開催。三棟あった施設のうち、戦時中に枯れ葉剤などの研究が行われていたコンクリート造の建物を資料館として保存する計画を明らかにした。当初、開館時期を〇八年秋としていたが、資料の寄贈依頼や展示方法の検討などに時間がかかり、延期されていた。

 東京新聞 2010年3月9日 
 http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/sonogo/news/201003/CK2010030902000173.html 
 (リンクは無効になっている場合があります)

 

2010年3月 7日 (日)

朝日新聞東京版 2010年3月6日 旧変電室「戦争遺産に」

旧変電室「戦争遺産に」

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市民グループなどが保存を求めている旧中島飛行機武蔵製作所の変電室=武蔵野市緑町2丁目

◆軍需工場・中島飛行機武蔵製作所の名残

 武蔵野市の都営武蔵野アパート(緑町2丁目)に残る旧中島飛行機武蔵製作所の変電室をめぐり、市民グループなどが保存を求めている。激しい空襲を耐え抜いた同製作所の「生き証人」だが、アパートの建て替え工事で取り壊される恐れがあるからだ。市もグループなどに足並みをそろえ、近く戦争遺産として都に保全・活用を要望する。
(佐藤清孝)

 この建物は、都立武蔵野中央公園に隣接した都営アパートの3号棟と4号棟の間にある。鉄筋コンクリート造りの2階建てで、建築面積は約160平方メートル。同製作所の南側にあった工具工場に付属する変電室で、内部に変電器を設置していたらしい。

 同製作所は当時、日本有数の軍需工場で、米軍の標的になった。1944年11月から9回に及ぶB29爆撃機による空襲で主要な工場は壊滅したが、変電室は鉄筋の建物としては唯一残っている。今は「管理事務室」として、都の倉庫のほか、アパート自治会が倉庫や集会室などとして使っている。

 保存を求めて運動しているのは「武蔵野の空襲と戦争遺跡を記録する会」(川村善二郎代表)。変電室についての調査や資料集めを市に要請し、2009年6月、保存に向けて都へ働きかけるよう市に要望書を出した。これに対して市も今年1月、前向きな姿勢を示す回答をした。

 都によると、都営武蔵野アパート(620戸)の建て替え工事は04年度から始まり、管理事務室の近くにある1~3号棟は解体されて新築工事中で、残るのは4~8号棟だけという。

 この5棟の住民には今年11月ごろに引っ越ししてもらった後、11年に解体する予定だが、都は変電室について「今後どう取り扱うか現時点では未定」(西部住宅建設事務所)と話す。また、住宅5棟の解体後は広さ約1ヘクタールの更地になる予定だが、この活用方法も決まっていないという。

 記録する会事務局の秋山昌文さん(74)は「戦争中、製作所周辺には高射砲陣地があり、我々子どもたちは爆弾の雨の中を逃げまどった。旧変電室を残すことで平和につなげたい」と強調する。

 アパート自治会も保存を求めており、3月中にも記録する会などと連名で都に要望書を出す予定だ。会長の平田昭虎(あき・とら)さん(75)は「未利用地全体を都立公園として広げ、市が旧変電室を借りて管理できないか」と話す。

 市は「未利用地の中にある建物だけを市が買うわけにはいかず、かといって用地全体を買う財政的な余裕はない」と説明。記録する会や自治会などと歩調を合わせ、「旧変電室を平和資料館として活用してほしい」と都に公園拡充を求めていく。

<中島飛行機武蔵製作所>
 三菱重工業と肩を並べた軍用機メーカー、中島飛行機が零戦などの航空機のエンジンを製造した軍需工場。1943年に陸軍専用工場の武蔵野製作所と海軍専用工場の多摩製作所が合併して誕生した。昼夜2万5千人が交代で働いたという。戦後、西側が米軍立川基地の将校家族用宿舎として使われた後に返還され、都立武蔵野中央公園として開園した。東側は都営住宅やNTT武蔵野研究開発センタ、武蔵野市役所などになっている。

 朝日新聞東京版 2010年3月6日
 http://mytown.asahi.com/tokyo/news.php?k_id=13000001003080001 
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2010年2月21日 (日)

琉球新報(毎日新聞沖縄版) 2010年2月20日 戦争:語り継ごう 沖縄と広島若者シンポ、体験者交え議論

戦争:語り継ごう 沖縄と広島若者シンポ、体験者交え議論

 広島と沖縄の若者が戦争体験の継承について議論するシンポジウム「オキナワ×ヒロシマ 若者が考える記憶の継承」が18日、那覇市首里の養秀会館で開かれた。沖縄戦の戦跡巡りを続ける広島経済大学の岡本貞雄教授ゼミが主催。戦争体験の聞き取りなどにかかわる若者4人が登壇し、戦争体験のない世代が体験者の話を伝える意味などについて議論した。

 岡本ゼミで戦跡巡りに参加した近藤太佑さん(4年)は「戦争は教科書の中の出来事だったが、直接話を聞き、体験者が言葉に表せない空気を感じた」と感想を語り「数年後には体験を聞けなくなるが、戦争をした国として語り継がないといけないと思う」と話した。

 修学旅行生の平和ガイドをしている沖縄国際大学の平和学習サークル「スマイライフ」代表の親川博敏さん(4年)は、活動を通して「体験者の話を自分の身に置き換えて考えるようになった」と変化を語り「知ったふりでなく、一緒に考えようという姿勢が大切だと思う」と強調した。

 平和ガイドの活動を経て関東地域の戦争遺跡などを調査する早稲田大学琉球沖縄研究所助手の伊佐慎一朗さんは「戦争体験だけでなく、戦争がその後の人生にどう影響したかを聞くことで、体験が違った形に見えてくると思う」と語った。

 沖縄戦を語り継ぐ元白梅学徒で「青春を語る会」代表の中山きくさんは「私たちもいつまで体験を語れるか分からない。どう伝えるか考えるいい機会になった。証言記録など資料も活用してほしい」と語った。

 シンポジウムには、広島からの戦跡巡り参加ゼミ生や一般参加者約60人のほか、沖縄国際大や琉球大の学生も出席した。

 琉球新報(毎日新聞 沖縄版) 2010年2月20日 
 http://mainichi.jp/area/okinawa/news/20100220rky00m040005000c.html 
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2010年1月26日 (火)

琉球新報 2010年1月24日 日本軍戦跡を活用 韓国研究者、済州島の現状を報告

日本軍戦跡を活用 韓国研究者、済州島の現状を報告

20100123 約50人が参加したシンポジウム「韓国済州島の日本軍戦争遺跡-調査・研究・保存・活用の現状」=23日、南風原町の南風原文化センター

 【南風原】シンポジウム「韓国済州島の日本軍戦争遺跡-調査・研究・保存・活用の現状」(主催・琉球大学)が23日、南風原町の南風原文化センターで約50人が参加して開かれた。太平洋戦争中に日本軍が築城した数多くの軍事施設が残る韓国・済州島から4人の研究者が出席し、施設の保存状態と戦争遺跡としての活用状況を報告した。研究者からは、戦跡保存には徹底した安全診断と施設補強が大切という指摘や、歴史が歪曲(わいきょく)されないために「なぜ保存するのか明確な認識が必要だ」との見方が示された。
 済州島では1945年2月中旬から、日本軍が本土決戦に備えて、洞窟(どうくつ)陣地や飛行機格納庫などの本格的な築城を始めた。同年2月に千人だった軍人数は8月には7万5千人にまで増えた。
 済州歴史文化振興院の李允〓(イ・ユンヒョン)氏は「地上戦がなかったため、軍事施設は良好な状態で残され、2002年以降、韓国文化財庁が13件を文化財に指定している」と説明した。
 済州大学史学科の金東栓(キム・トンジョン)教授は、カマオルム洞窟陣地の一部を個人が平和博物館として運営している取り組みを紹介した。活発に活用されている半面、「杉の板で(洞窟の)両側側面と天井をふさいで修復したが、湿気や雨水の流入により、安全面では多くの課題を残している」と話した。

※注:〓は王ヘンに「行」

 琉球新報社会面 2010年1月24日
 http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-156149-storytopic-1.html
 http://mainichi.jp/area/okinawa/news/20100124rky00m040002000c.html 
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2010年1月25日 (月)

高知新聞 2010年1月23日 戦争遺跡授業で活用を

戦争遺跡授業で活用を

 特攻隊の飛行場、風船爆弾の放流基地、特攻艇の基地…一昨年、筑波大学の大学院生らが茨城県内に残る戦争遺跡を約1年かけて調査し、中学や高校で社会科の教材として利用してもらおうと一冊の本にまとめた。メンバーの一人で栃木の高校で教壇に立つ小田真代さん(25)=高知市出身=はこうした経験を生かし、歴史的な事実を知り、調べる素材として、戦争遺跡を授業で活用する方法を模索している。

【写真】「歴史を面白いと思う瞬間を生徒たちにも感じてほしい」と話す小田真代さん(高知市内)

 高知新聞 2010年1月23日 
 http://www.47news.jp/localnews/kochi/2010/01/post_20100123163058.html 
 http://203.139.202.230/?&nwSrl=254548&nwIW=1&nwVt=knd
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産経新聞 2010年1月24日 消えゆく戦後…ゼロ戦整備も行った旧海軍整備工場が70年の歴史に幕

消えゆく戦後…ゼロ戦整備も行った旧海軍整備工場が70年の歴史に幕

20100124 屋根側面には、明かり取り用の窓がはめ込まれているのが見える=千葉県木更津市の航空自衛隊第1補給処

房総と鎌倉、江戸を結ぶ港町として古くから栄えてきた千葉県木更津市には、陸海空の3自衛隊が居を構える。今では航空自衛隊第1補給処となった基地で、旧海軍時代の面影を伝えてきた整備工場が、老朽化のため姿を消そうとしている。(石井那納子)

 まるでノコギリの刃のように、三角形のトタン屋根が連なる特徴的な外観を持つ工場は広さ約7千平方メートル、実にテニスコート27面分に匹敵する。平成19年に新しい工場ができて以降は、主に事務作業を行うために使われてきた。

 だが、昨年10月、新しい第2庁舎が落成したことで、事務所としての役割も終えた。

 渉外班長の染野昭智三等空佐(45)の案内で工場内に入った。

 がらんとした工場内部に降り注ぐ日の光は、どこか哀愁を帯びる。太い鉄筋で組み立てられた天井を見上げると、不思議な形に思われた屋根にはガラス窓がはめられ、明かり取りになっていることがわかる。

 照明設備が発達していなかった時代、日の光を頼りに作業をしていた人々の姿が思い起こされた。

 同基地は「航空」の名前を冠するが、補給部隊のため航空機の配備はない。その基地内にこれほど大規模な整備工場が存在するのは、この地に大日本帝国海軍航空隊が置かれていたことに由来する。

首都防衛を目的に、同隊が設置されたのは昭和11年のこと。同16年には、第2海軍航空廠(しょう)の本工場が設置された。激しい大戦を経て、航空隊跡地は陸自駐屯地、海自補給処の各施設となり、第2航空廠は空自補給処となった。

 「曇った窓が見えませんか。あれは墨を塗った跡ですよ」

 同補給処施設課の斉藤芳浩防衛技官(44)が指さす天井付近に目をこらしてみると、ガラスの所々に青白い曇りがあることに気づく。

 「大戦期、夜間の敵機来襲に備えたのために、工場では窓に墨を塗って作業をしていたそうです」と説明してくれた。

 旧海軍時代には戦闘機組立工場として役目を果たし、「零戦」の略称でも知られた海軍の主力戦闘機の整備もおこなっていたという。

 この工場で組みあがった戦闘機は、海自補給処につながる道路を通り、滑走路まで運ばれた。4車線の道幅の広さがその名残を今に伝える。

 20年ほど前には、隊内にも戦争経験者がおり、こうしたエピソードを感慨深げに話す人が多かったのだという。

 戦禍をこうむることなく、70年近くにわたって激動の時代を見つめてきた整備工場の歴史が閉じる。

 産経新聞 2010年1月24日
 http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100124/acd1001241801007-n1.htm
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