« 朝日新聞東京版 2010年3月6日 旧変電室「戦争遺産に」 | トップページ | 朝日新聞多摩版 2010年3月16日 三鷹の戦跡たどる(フィールドワーク) »

2010年3月11日 (木)

東京新聞 2010年3月9日 旧陸軍登戸研究所の資料館計画(川崎市多摩区) 戦争加害の歴史、来月公開

旧陸軍登戸研究所の資料館計画(川崎市多摩区) 戦争加害の歴史、来月公開

昨年4月に行われた現地見学会。奥は解体が予定されている5号棟=いずれも川崎市多摩区の明治大生田キャンパスで

 川崎市多摩区の明治大学生田キャンパス。緑豊かな丘の上の大学構内に残る“戦争遺跡”は、学生にさえあまり知られていない。戦時中の旧陸軍登戸研究所の関連施設で、現在、二棟が残る。このうち、生物化学兵器が開発されていたコンクリート造の「三十六号棟」が今春、資料館に生まれ変わる。

 同研究所は陸軍参謀本部直属の組織として、中国紙幣の偽造や風船爆弾の開発など、秘密戦や謀略戦の研究・開発を行っていたとされる。戦略上、同研究所の存在は軍の法規にも記されず、終戦後も関連資料は隠匿され、所員は業務内容を口外しないよう厳命されていた。長い間注目されることなく、一九七〇~八〇年代のキャンパス整備で多くの施設が取り壊された。

 八〇年代後半に、同研究所に関心を持った地元の法政大学第二高校(川崎市中原区)の生徒らが元所員らの聞き取り調査に着手。「大人には話したくないが、若い高校生には戦時中に起きたことを伝えたい」と元研究員らが重い口を開き、細菌兵器研究の実態などが徐々に分かってきた。

 当時、同校教員として調査にかかわり、現在は明治大文学部非常勤講師として研究を続ける渡辺賢二さん(66)は「元所員の中には、戦争の加害に加担した過去を話してはいけないという思いと、研究所を後世に伝えたい思いが交錯していたのだろう」と分析する。

 同時に終戦から六十年を経たころ、同大に元所員から「登戸研究所の忌まわしい記憶が歴史から消え去ってしまうのは大変残念で、死ぬに死ねない」という手紙が届いた。その思いに応えたいと大学側も二〇〇六年、学内委員会をつくり、資料館設置の検討を始めた。

 老朽化した建物の改修や資料収集に手間取ったが、ようやく完成。「明治大学平和教育登戸研究所資料館」として、四月七日から一般公開される。同大では新年度から、登戸研究所を伝える授業も新設する。

 資料館開設準備室長を務める文学部の山田朗教授(53)は「元研究員は『(中国人捕虜を使った人体実験は)最初はいやだったが、慣れると薬の効果を試すための趣味になった』と証言した。大義名分のもと、研究者が倫理観を失った過去は、現在の研究者も教訓にしなければいけない」と力を込める。

 キャンパス内には殉職者を祭った神社や、陸軍のマークが入った消火栓なども残るが、偽札倉庫だった木造の二十六号棟は昨夏、老朽化のため解体。偽札工場だった木造の五号棟も解体される予定だが、市民団体などが保存を求めている。

 キャンパス内に点在する遺跡ガイドも行っている「旧陸軍登戸研究所の保存を求める川崎市民の会」の森田忠正事務局長(65)はこう語る。「戦争の加害者としての遺跡は全国的にも珍しい。あらためて平和を考える場にしていきたい」 (北条香子)

◆あのとき

 明治大学は二〇〇七年六月、生田キャンパス内に残る旧陸軍第九技術研究所(通称・登戸研究所)の現地見学会と講演会を初開催。三棟あった施設のうち、戦時中に枯れ葉剤などの研究が行われていたコンクリート造の建物を資料館として保存する計画を明らかにした。当初、開館時期を〇八年秋としていたが、資料の寄贈依頼や展示方法の検討などに時間がかかり、延期されていた。

 東京新聞 2010年3月9日 
 http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/sonogo/news/201003/CK2010030902000173.html 
 (リンクは無効になっている場合があります)

 

« 朝日新聞東京版 2010年3月6日 旧変電室「戦争遺産に」 | トップページ | 朝日新聞多摩版 2010年3月16日 三鷹の戦跡たどる(フィールドワーク) »

戦争遺跡ニュース」カテゴリの記事

フォト
2018年10月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ