このブログについて

(プロフィールと合わせてお読み下さい)

戦争遺跡ガイドの石橋です。大学院生として、日本の近現代史、特に戦時下の社会や歴史教育問題を研究していました。

ガイド歴は、2007年から日吉台地下壕保存の会に参加、その後に登戸研究所保存の会にも参加し、ガイド活動を続けています。平和のための博物館での勤務も経験し、展示案内や考えてもらう説明を続けてきました。

現在は主に、日吉台でフィールドワークのガイドをしています。

戦争遺跡とは、戦争に関係する場所で施設や遺構が残る場所です。戦争を考えるために活用するスタンスから使われる言葉です。

このブログでは、戦争遺跡ガイドの中で考えたこと、戦争遺跡に関連するニュースの紹介などをしています。

私の関係する戦争遺跡のガイド依頼については、こちらのブログでは受けつけておりません。各保存の会のサイトをご確認の上、保存の会にご連絡下さい。

日吉台地下壕保存の会
http://hiyoshidai-chikagou.net/

登戸研究所保存の会
http://www.geocities.jp/noboritokenkyujo/

何かご質問等があれば、こちらのアドレスにおねがいします。
Ishibashi.s@gmail.com

2015年6月13日 (土)

「旧陸軍工場の校舎、保存を」名城大OBら要望 (名城大学農学部付属農場本館をミュージアムへ)

「旧陸軍工場の校舎、保存を」名城大OBら要望

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名古屋陸軍造兵廠鷹来製造所本館だった名城大学農学部付属農場本館。玄関上の外壁に陸軍の「星章」の跡が残る(愛知県春日井市で)=大井雅之撮影

   
 戦時中、銃弾などが製造された名古屋陸軍造兵廠しょう鷹来たかき製造所の本館だった名城大学農学部付属農場本館(愛知県春日井市鷹来町)について、卒業生や地元住民、教授らが昨年10月、平和・産業ミュージアムとして保存するよう求める要望書を大学に提出した。

 終戦から70年を経て、各地の戦争遺跡・旧日本軍施設は消滅の危機に直面する。卒業生らは「戦争の記憶と平和の尊さを伝える拠点として残してほしい」と訴えている。

 農場本館は鉄筋コンクリート製の地上2階地下1階。戦時中は製造所全体の「司令塔」の役割を果たし、玄関上部に時計台があり、壁に旧陸軍の「星章」の跡が残る。屋上は空襲からカムフラージュするため緑化され、絶滅危惧種「イシモチソウ」などが一面に生える。高射機関砲が置かれた土盛りなどもあり、戦争の痕跡を色濃く残す。

 戦後は、名城大学が農学部を開設した1950年、本館を含む製造所の敷地の一部に付属農場が置かれた。今も農場実習や講義のために使用されている。

 同大学施設部によると、付属農場では新たな本館を現本館のそばに建設する方針で、2016年3月の完成を目指す。現本館は既に耐震補強を施され、当面は併用されるが、加鳥裕明副学長は「どのように保存していくかは未定」と話す。

 これに対し、卒業生らは「名城大学付属農場の歴史的遺構保存を呼びかける会」を結成。本館保存と、模擬原爆が同製造所に落とされたことを伝える碑の建立を求めている。呼びかけ人の渋井康弘経済学部教授は「70年の時を超え、戦中の動員学徒と今の学生がこの場所でつながっている」と話し、「軍需工場の技術が戦後、愛知の『ものづくり』を支えた歴史を伝える場所でもある」とする。

 大学で旧日本軍施設が戦争を伝える施設として保存された例は、生物・化学兵器などが開発された陸軍登戸研究所(現・明治大学平和教育登戸研究所資料館、川崎市)がある。愛知県豊川市は、機銃などを製造した海軍豊川工廠の一部で、今は名古屋大学の研究所分室になっている約18ヘクタールのうち約3ヘクタールを購入し、火薬庫など2棟を含む平和公園(仮称)を整備する方針で、18年度開園を目指す。

 市民団体「春日井の戦争を記録する会」の金子力つとむさん(64)は「農場本館は極めて貴重な施設。説明をつけて残せば大学や地域の財産になる」と語り、ミュージアムが実現すれば、住民から譲り受けた模擬原爆の破片を展示したいと願う。

 遺跡全国3万件 継承に障壁

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 市民団体「戦争遺跡保存全国ネットワーク」(長野市)によると、戦争遺跡は全国に約3万件が残る。しかし、再開発などで消えていく施設も多く、所有権の所在が不明なものや、保存の技術・費用など、継承には様々な障壁がある。

 東海3県には都市の工場を郊外の地下壕ごうに移した地下軍需工場跡が残るが、多くは荒廃したまま。岐阜県瑞浪市の化石博物館は、地下軍需工場跡を化石の見学などで活用しているが、戦争を学ぶ目的ではほとんど使われていない。

 三重県鈴鹿市の旧鈴鹿海軍航空基地格納庫は、地元住民らが2009年から保存を求め、全国から1万3000に上る解体反対の署名を集めた。しかし、市や所有者の企業などが再開発計画を進め、格納庫3棟は11年3月に解体された。

 大砲の性能試験が行われた愛知県田原市の陸軍伊良湖試験場跡は6階建ての観測塔などが残るが、地域の団体や個人が所有。劣化が進み、地元では観測塔の市への無償譲渡を模索する。地元自治会の森下田嘉治会長(63)は「保存するにも費用がかかり、地元だけで残すのは困難だ」と語る。

 終戦前日に模擬原爆

 名古屋陸軍造兵廠鷹来製造所 1941年開設。市民団体によると、終戦時は4151人が働き、うち960人以上が動員学徒。銃弾などのほか、ジェット気流に乗せて米本土を直接攻撃する風船爆弾も製造された。終戦前日の45年8月14日、米軍が原爆投下訓練用に開発した模擬原爆(1万ポンド=約4.5トン=高性能爆弾、長崎原爆とほぼ同形)が落とされ、直撃された工場が全壊するなどした。

 読売新聞 教育面 2015年1月20日
 
 http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news/20150119-OYT8T50198.html
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2010年9月23日 (木)

朝日新聞大阪本社版夕刊 2010年9月21日 大阪大、壁壊したら「奉安庫」 戦前に御真影など収納

大阪大、壁壊したら「奉安庫」 戦前に御真影など収納

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解錠作業が進められる奉安庫=21日午前、大阪府豊中市の大阪大学、筋野健太撮影

 耐震改修中の大阪大学豊中キャンパスのイ号館の壁を壊したところ、戦前に天皇、皇后の「御真影(ごしんえい)」や教育勅語を納めていた金庫型の「奉安庫」が見つかった。同大は21日午前、鍵を開ける作業を始めた。全国の学校に設置されていた奉安庫、奉安殿の多くは、連合国軍総司令部(GHQ)が1945年12月に出した神道指令で解体された。発見した同大学の廣川和花助教は「奉安庫の手前に壁を作り、65年間も見つからなかったのは珍しい」とみる。

 イ号館は28年の建築。49年の学制改革で大阪大に包括された旧制浪速高校の本校舎で、国の登録有形文化財に指定されている。1階の元校長室(約66平方メートル)の北西角を斜めに仕切っていた壁(厚さ約3センチ)をはいだところ、しっくいに埋め込まれた観音開きの奉安庫(高さ94センチ、幅73センチ)が見つかった。

 東京、神奈川で奉安殿の遺構調査をした玉川大学教育博物館の白柳弘幸学芸員は「建物に埋め込まれた奉安庫を動かすのは大変なので、手前に壁を作り、GHQから隠したのではないか」と指摘する。調査した他の学校では、建物外の奉安殿は46年までに教職員がハンマーやダイナマイトで壊していたが、動かせない奉安庫は戦後、金庫や書類入れとして使ったという。

 神戸高校や奈良女子大には講堂に奉安庫の名残の観音開きの扉が残されている。神戸市外国語大学の長志珠絵(おさ・しずえ)准教授(日本現代史)は「旧制高校や帝国大学は行政や軍とかかわって、戦争を積極的に支える役割を担っていたため、GHQの捜索を受けまいと過剰反応して隠したのではないか」と推測している。

 朝日新聞大阪本社版夕刊 2010年9月21日
 http://www.asahi.com/national/update/0921/OSK201009210065.html
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2010年3月17日 (水)

山陽新聞 2010年3月15日 防空壕跡の調査開始 尾道・因島空襲を考える会

防空壕跡の調査開始 尾道・因島空襲を考える会

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ホテル「ナティーク城山」の下にある防空壕跡を調査する中村さん(左)と青木さん

 第2次世界大戦末期の「因島空襲」を調べている尾道市因島の住民が、被災した造船所のあった島南部などに残る防空壕(ごう)跡の位置や現状の調査を始めた。7月28日の空襲の日に合わせ、報告会や防空壕跡前で鎮魂のコンサートを計画している。

 調査に取り組む「因島空襲を考える会」の青木忠さん(65)=同市因島椋浦町=と中村公巳(ひろみ)さん(68)=同市因島田熊町=は、「戦後65年を迎え、記憶の風化が懸念される。戦争遺跡として記録を残したい」と話す。

 今月4日、同市因島土生町のホテル「ナティーク城山」が立つ山にある防空壕跡を現地調査。14カ所あったとされる防空壕の出入り口のうち、コンクリートなどでふさがれずに、倉庫として使われている防空壕跡に入った。2カ所の出入り口でつながり、戦争当時からあったと思われる石やれんが積みの壁などを確認した。

 今後は住民からの聞き取りや、因島三庄町などに多く残る防空壕跡を訪ねる。

 因島空襲は1945年3月19日と7月28日、米軍機が造船所を中心に攻撃し、100人以上が亡くなったとされるが、記録や資料が少なく一般に知られていない。最近の調査で、7月28日は造船所に停泊中の貨物船など4隻が被災、船員17人が死亡したことが分かった。(以下、Webには未掲載)

 山陽新聞 2010年3月15日
 http://www.sanyo.oni.co.jp/news_s/news/d/2010031509350441/ 
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朝日新聞多摩版 2010年3月16日 三鷹の戦跡たどる(フィールドワーク)

三鷹の戦跡たどる

 太平洋戦争末期の三鷹市で、空襲で多数の犠牲者が出た4月2日を前に、市内の戦争遺跡をめぐる講座が21と23の両日に開かれる。調布飛行場などを守るため米軍機と交戦した高射砲陣地跡や軍用機を空襲から守る格納庫・掩体壕(えんたいごう)のほか、旧中島飛行機の研究所跡地に建つ大学など「飛行機工場の町」の痕跡を訪ねるフィールドワークがある。(佐藤清孝)

 戦前の三鷹は、航空機産業を担う軍需工場の町として発展した。航空機用無線機のトップメーカー・日本無線や中央航空研究所などが次々に建設され、1940年に約2万1千人だった人口は終戦時の45年には約4万人に倍増した。

 軍需工場の中でも、調布飛行場と関係の深い中島飛行機三鷹研究所は大沢地区の200ヘクタール近い土地を買収して建てられた。米本土爆撃を目的にした超大型爆撃機「富嶽(ふ・がく)」のエンジンを設計し、特攻機として使われる予定だった「剣(つるぎ)」の開発を進めた。

 一方、45年に入ると三鷹市でも空襲が激化。2月17日に米軍の艦載機が同研究所に襲来し、防空壕がつぶれ、工員4人が犠牲になった。4月2日には下連雀2丁目で29人が死亡した。

 講座は、教育研究機関や市などによるNPO法人が運営する「三鷹ネットワーク大学」の三鷹「通」養成講座の一環だ。

 講師を務める高柳昌久さん(43)は同研究所跡地の一部に建つ国際基督教大学(ICU)高校の教諭で、「武蔵野の空襲と戦争遺跡を記録する会」の幹事。研究所について関係者の聞き取り調査を進め、その成果を05年に共著で戦争遺跡のガイドブック「戦争の記憶を武蔵野にたずねて」(ぶんしん出版)として出した。

 フィールドワークではまず、保育園「椎(しい)の実子供の家」に残る高射砲陣地の台座跡4台を見学する。戦況が悪化する43年、首都防衛を目的に調布飛行場を一望できる高台に6門が設置された。45年2月17日、米軍艦載機の攻撃で兵士4人が戦死した場所だ。

 この後、同飛行場の門柱や旧特攻隊宿舎跡、府中と調布市にもまたがる都立武蔵野の森公園で保存・公開されている2基の掩体壕を見学。最後に、中島飛行機の創立者・中島知久平が住んだICU敷地内の別荘「泰山荘」や、同研究所の設計本館を改装したICU本館も訪ねる。

 23日には、午後7時から高柳さんが「飛行機工場の町 三鷹」と題して講演する。高柳さんは「戦争という国家総動員体制の中で三鷹がどんな影響を受けたのか、それを知ることで今の三鷹を見直す手がかりになれば」と話している。

 21日は午後0時半、三鷹駅近くのネットワーク大学集合。先着30人(2回の通し受講のみ、市外も可)。500円(別途バス代必要)。問い合わせは同大学(0422・40・0313)へ。

 朝日新聞多摩版 2010年3月16日 
 http://mytown.asahi.com/tama/news.php?k_id=14000001003160001
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2010年3月11日 (木)

東京新聞 2010年3月9日 旧陸軍登戸研究所の資料館計画(川崎市多摩区) 戦争加害の歴史、来月公開

旧陸軍登戸研究所の資料館計画(川崎市多摩区) 戦争加害の歴史、来月公開

昨年4月に行われた現地見学会。奥は解体が予定されている5号棟=いずれも川崎市多摩区の明治大生田キャンパスで

 川崎市多摩区の明治大学生田キャンパス。緑豊かな丘の上の大学構内に残る“戦争遺跡”は、学生にさえあまり知られていない。戦時中の旧陸軍登戸研究所の関連施設で、現在、二棟が残る。このうち、生物化学兵器が開発されていたコンクリート造の「三十六号棟」が今春、資料館に生まれ変わる。

 同研究所は陸軍参謀本部直属の組織として、中国紙幣の偽造や風船爆弾の開発など、秘密戦や謀略戦の研究・開発を行っていたとされる。戦略上、同研究所の存在は軍の法規にも記されず、終戦後も関連資料は隠匿され、所員は業務内容を口外しないよう厳命されていた。長い間注目されることなく、一九七〇~八〇年代のキャンパス整備で多くの施設が取り壊された。

 八〇年代後半に、同研究所に関心を持った地元の法政大学第二高校(川崎市中原区)の生徒らが元所員らの聞き取り調査に着手。「大人には話したくないが、若い高校生には戦時中に起きたことを伝えたい」と元研究員らが重い口を開き、細菌兵器研究の実態などが徐々に分かってきた。

 当時、同校教員として調査にかかわり、現在は明治大文学部非常勤講師として研究を続ける渡辺賢二さん(66)は「元所員の中には、戦争の加害に加担した過去を話してはいけないという思いと、研究所を後世に伝えたい思いが交錯していたのだろう」と分析する。

 同時に終戦から六十年を経たころ、同大に元所員から「登戸研究所の忌まわしい記憶が歴史から消え去ってしまうのは大変残念で、死ぬに死ねない」という手紙が届いた。その思いに応えたいと大学側も二〇〇六年、学内委員会をつくり、資料館設置の検討を始めた。

 老朽化した建物の改修や資料収集に手間取ったが、ようやく完成。「明治大学平和教育登戸研究所資料館」として、四月七日から一般公開される。同大では新年度から、登戸研究所を伝える授業も新設する。

 資料館開設準備室長を務める文学部の山田朗教授(53)は「元研究員は『(中国人捕虜を使った人体実験は)最初はいやだったが、慣れると薬の効果を試すための趣味になった』と証言した。大義名分のもと、研究者が倫理観を失った過去は、現在の研究者も教訓にしなければいけない」と力を込める。

 キャンパス内には殉職者を祭った神社や、陸軍のマークが入った消火栓なども残るが、偽札倉庫だった木造の二十六号棟は昨夏、老朽化のため解体。偽札工場だった木造の五号棟も解体される予定だが、市民団体などが保存を求めている。

 キャンパス内に点在する遺跡ガイドも行っている「旧陸軍登戸研究所の保存を求める川崎市民の会」の森田忠正事務局長(65)はこう語る。「戦争の加害者としての遺跡は全国的にも珍しい。あらためて平和を考える場にしていきたい」 (北条香子)

◆あのとき

 明治大学は二〇〇七年六月、生田キャンパス内に残る旧陸軍第九技術研究所(通称・登戸研究所)の現地見学会と講演会を初開催。三棟あった施設のうち、戦時中に枯れ葉剤などの研究が行われていたコンクリート造の建物を資料館として保存する計画を明らかにした。当初、開館時期を〇八年秋としていたが、資料の寄贈依頼や展示方法の検討などに時間がかかり、延期されていた。

 東京新聞 2010年3月9日 
 http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/sonogo/news/201003/CK2010030902000173.html 
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2010年3月 7日 (日)

朝日新聞東京版 2010年3月6日 旧変電室「戦争遺産に」

旧変電室「戦争遺産に」

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市民グループなどが保存を求めている旧中島飛行機武蔵製作所の変電室=武蔵野市緑町2丁目

◆軍需工場・中島飛行機武蔵製作所の名残

 武蔵野市の都営武蔵野アパート(緑町2丁目)に残る旧中島飛行機武蔵製作所の変電室をめぐり、市民グループなどが保存を求めている。激しい空襲を耐え抜いた同製作所の「生き証人」だが、アパートの建て替え工事で取り壊される恐れがあるからだ。市もグループなどに足並みをそろえ、近く戦争遺産として都に保全・活用を要望する。
(佐藤清孝)

 この建物は、都立武蔵野中央公園に隣接した都営アパートの3号棟と4号棟の間にある。鉄筋コンクリート造りの2階建てで、建築面積は約160平方メートル。同製作所の南側にあった工具工場に付属する変電室で、内部に変電器を設置していたらしい。

 同製作所は当時、日本有数の軍需工場で、米軍の標的になった。1944年11月から9回に及ぶB29爆撃機による空襲で主要な工場は壊滅したが、変電室は鉄筋の建物としては唯一残っている。今は「管理事務室」として、都の倉庫のほか、アパート自治会が倉庫や集会室などとして使っている。

 保存を求めて運動しているのは「武蔵野の空襲と戦争遺跡を記録する会」(川村善二郎代表)。変電室についての調査や資料集めを市に要請し、2009年6月、保存に向けて都へ働きかけるよう市に要望書を出した。これに対して市も今年1月、前向きな姿勢を示す回答をした。

 都によると、都営武蔵野アパート(620戸)の建て替え工事は04年度から始まり、管理事務室の近くにある1~3号棟は解体されて新築工事中で、残るのは4~8号棟だけという。

 この5棟の住民には今年11月ごろに引っ越ししてもらった後、11年に解体する予定だが、都は変電室について「今後どう取り扱うか現時点では未定」(西部住宅建設事務所)と話す。また、住宅5棟の解体後は広さ約1ヘクタールの更地になる予定だが、この活用方法も決まっていないという。

 記録する会事務局の秋山昌文さん(74)は「戦争中、製作所周辺には高射砲陣地があり、我々子どもたちは爆弾の雨の中を逃げまどった。旧変電室を残すことで平和につなげたい」と強調する。

 アパート自治会も保存を求めており、3月中にも記録する会などと連名で都に要望書を出す予定だ。会長の平田昭虎(あき・とら)さん(75)は「未利用地全体を都立公園として広げ、市が旧変電室を借りて管理できないか」と話す。

 市は「未利用地の中にある建物だけを市が買うわけにはいかず、かといって用地全体を買う財政的な余裕はない」と説明。記録する会や自治会などと歩調を合わせ、「旧変電室を平和資料館として活用してほしい」と都に公園拡充を求めていく。

<中島飛行機武蔵製作所>
 三菱重工業と肩を並べた軍用機メーカー、中島飛行機が零戦などの航空機のエンジンを製造した軍需工場。1943年に陸軍専用工場の武蔵野製作所と海軍専用工場の多摩製作所が合併して誕生した。昼夜2万5千人が交代で働いたという。戦後、西側が米軍立川基地の将校家族用宿舎として使われた後に返還され、都立武蔵野中央公園として開園した。東側は都営住宅やNTT武蔵野研究開発センタ、武蔵野市役所などになっている。

 朝日新聞東京版 2010年3月6日
 http://mytown.asahi.com/tokyo/news.php?k_id=13000001003080001 
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2010年2月21日 (日)

琉球新報(毎日新聞沖縄版) 2010年2月20日 戦争:語り継ごう 沖縄と広島若者シンポ、体験者交え議論

戦争:語り継ごう 沖縄と広島若者シンポ、体験者交え議論

 広島と沖縄の若者が戦争体験の継承について議論するシンポジウム「オキナワ×ヒロシマ 若者が考える記憶の継承」が18日、那覇市首里の養秀会館で開かれた。沖縄戦の戦跡巡りを続ける広島経済大学の岡本貞雄教授ゼミが主催。戦争体験の聞き取りなどにかかわる若者4人が登壇し、戦争体験のない世代が体験者の話を伝える意味などについて議論した。

 岡本ゼミで戦跡巡りに参加した近藤太佑さん(4年)は「戦争は教科書の中の出来事だったが、直接話を聞き、体験者が言葉に表せない空気を感じた」と感想を語り「数年後には体験を聞けなくなるが、戦争をした国として語り継がないといけないと思う」と話した。

 修学旅行生の平和ガイドをしている沖縄国際大学の平和学習サークル「スマイライフ」代表の親川博敏さん(4年)は、活動を通して「体験者の話を自分の身に置き換えて考えるようになった」と変化を語り「知ったふりでなく、一緒に考えようという姿勢が大切だと思う」と強調した。

 平和ガイドの活動を経て関東地域の戦争遺跡などを調査する早稲田大学琉球沖縄研究所助手の伊佐慎一朗さんは「戦争体験だけでなく、戦争がその後の人生にどう影響したかを聞くことで、体験が違った形に見えてくると思う」と語った。

 沖縄戦を語り継ぐ元白梅学徒で「青春を語る会」代表の中山きくさんは「私たちもいつまで体験を語れるか分からない。どう伝えるか考えるいい機会になった。証言記録など資料も活用してほしい」と語った。

 シンポジウムには、広島からの戦跡巡り参加ゼミ生や一般参加者約60人のほか、沖縄国際大や琉球大の学生も出席した。

 琉球新報(毎日新聞 沖縄版) 2010年2月20日 
 http://mainichi.jp/area/okinawa/news/20100220rky00m040005000c.html 
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2010年1月26日 (火)

琉球新報 2010年1月24日 日本軍戦跡を活用 韓国研究者、済州島の現状を報告

日本軍戦跡を活用 韓国研究者、済州島の現状を報告

20100123 約50人が参加したシンポジウム「韓国済州島の日本軍戦争遺跡-調査・研究・保存・活用の現状」=23日、南風原町の南風原文化センター

 【南風原】シンポジウム「韓国済州島の日本軍戦争遺跡-調査・研究・保存・活用の現状」(主催・琉球大学)が23日、南風原町の南風原文化センターで約50人が参加して開かれた。太平洋戦争中に日本軍が築城した数多くの軍事施設が残る韓国・済州島から4人の研究者が出席し、施設の保存状態と戦争遺跡としての活用状況を報告した。研究者からは、戦跡保存には徹底した安全診断と施設補強が大切という指摘や、歴史が歪曲(わいきょく)されないために「なぜ保存するのか明確な認識が必要だ」との見方が示された。
 済州島では1945年2月中旬から、日本軍が本土決戦に備えて、洞窟(どうくつ)陣地や飛行機格納庫などの本格的な築城を始めた。同年2月に千人だった軍人数は8月には7万5千人にまで増えた。
 済州歴史文化振興院の李允〓(イ・ユンヒョン)氏は「地上戦がなかったため、軍事施設は良好な状態で残され、2002年以降、韓国文化財庁が13件を文化財に指定している」と説明した。
 済州大学史学科の金東栓(キム・トンジョン)教授は、カマオルム洞窟陣地の一部を個人が平和博物館として運営している取り組みを紹介した。活発に活用されている半面、「杉の板で(洞窟の)両側側面と天井をふさいで修復したが、湿気や雨水の流入により、安全面では多くの課題を残している」と話した。

※注:〓は王ヘンに「行」

 琉球新報社会面 2010年1月24日
 http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-156149-storytopic-1.html
 http://mainichi.jp/area/okinawa/news/20100124rky00m040002000c.html 
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2010年1月25日 (月)

高知新聞 2010年1月23日 戦争遺跡授業で活用を

戦争遺跡授業で活用を

 特攻隊の飛行場、風船爆弾の放流基地、特攻艇の基地…一昨年、筑波大学の大学院生らが茨城県内に残る戦争遺跡を約1年かけて調査し、中学や高校で社会科の教材として利用してもらおうと一冊の本にまとめた。メンバーの一人で栃木の高校で教壇に立つ小田真代さん(25)=高知市出身=はこうした経験を生かし、歴史的な事実を知り、調べる素材として、戦争遺跡を授業で活用する方法を模索している。

【写真】「歴史を面白いと思う瞬間を生徒たちにも感じてほしい」と話す小田真代さん(高知市内)

 高知新聞 2010年1月23日 
 http://www.47news.jp/localnews/kochi/2010/01/post_20100123163058.html 
 http://203.139.202.230/?&nwSrl=254548&nwIW=1&nwVt=knd
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産経新聞 2010年1月24日 消えゆく戦後…ゼロ戦整備も行った旧海軍整備工場が70年の歴史に幕

消えゆく戦後…ゼロ戦整備も行った旧海軍整備工場が70年の歴史に幕

20100124 屋根側面には、明かり取り用の窓がはめ込まれているのが見える=千葉県木更津市の航空自衛隊第1補給処

房総と鎌倉、江戸を結ぶ港町として古くから栄えてきた千葉県木更津市には、陸海空の3自衛隊が居を構える。今では航空自衛隊第1補給処となった基地で、旧海軍時代の面影を伝えてきた整備工場が、老朽化のため姿を消そうとしている。(石井那納子)

 まるでノコギリの刃のように、三角形のトタン屋根が連なる特徴的な外観を持つ工場は広さ約7千平方メートル、実にテニスコート27面分に匹敵する。平成19年に新しい工場ができて以降は、主に事務作業を行うために使われてきた。

 だが、昨年10月、新しい第2庁舎が落成したことで、事務所としての役割も終えた。

 渉外班長の染野昭智三等空佐(45)の案内で工場内に入った。

 がらんとした工場内部に降り注ぐ日の光は、どこか哀愁を帯びる。太い鉄筋で組み立てられた天井を見上げると、不思議な形に思われた屋根にはガラス窓がはめられ、明かり取りになっていることがわかる。

 照明設備が発達していなかった時代、日の光を頼りに作業をしていた人々の姿が思い起こされた。

 同基地は「航空」の名前を冠するが、補給部隊のため航空機の配備はない。その基地内にこれほど大規模な整備工場が存在するのは、この地に大日本帝国海軍航空隊が置かれていたことに由来する。

首都防衛を目的に、同隊が設置されたのは昭和11年のこと。同16年には、第2海軍航空廠(しょう)の本工場が設置された。激しい大戦を経て、航空隊跡地は陸自駐屯地、海自補給処の各施設となり、第2航空廠は空自補給処となった。

 「曇った窓が見えませんか。あれは墨を塗った跡ですよ」

 同補給処施設課の斉藤芳浩防衛技官(44)が指さす天井付近に目をこらしてみると、ガラスの所々に青白い曇りがあることに気づく。

 「大戦期、夜間の敵機来襲に備えたのために、工場では窓に墨を塗って作業をしていたそうです」と説明してくれた。

 旧海軍時代には戦闘機組立工場として役目を果たし、「零戦」の略称でも知られた海軍の主力戦闘機の整備もおこなっていたという。

 この工場で組みあがった戦闘機は、海自補給処につながる道路を通り、滑走路まで運ばれた。4車線の道幅の広さがその名残を今に伝える。

 20年ほど前には、隊内にも戦争経験者がおり、こうしたエピソードを感慨深げに話す人が多かったのだという。

 戦禍をこうむることなく、70年近くにわたって激動の時代を見つめてきた整備工場の歴史が閉じる。

 産経新聞 2010年1月24日
 http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100124/acd1001241801007-n1.htm
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2010年1月23日 (土)

琉球新報 2010年1月21日 戦争遺跡で全国シンポ 6月に南風原町で開催

戦争遺跡で全国シンポ 6月に南風原町で開催

20100121 「第14回戦争遺跡保存全国シンポジウム南風原大会」に向けて日程、テーマなどを決定した第1回実行委員会=16日、南風原町喜屋武の南風原文化センター

【南風原】戦争遺跡の文化財指定の促進と保存活用の方法を考える「第14回戦争遺跡保存全国シンポジウム南風原大会」が6月、南風原町で開催される。大会に向けた第1回実行委員会が16日、南風原文化センターで開かれ、シンポジウム、分科会のテーマを決定した。年を追い減少する体験者。それに代わる歴史の“語り部”となる戦争遺跡の保存活用に向けた法整備や保存技術の向上、ガイドの育成など全国の参加者が共通課題を出し合い、より良い方策を考える。
 全国シンポの南風原町開催は1998年以来2回目。吉浜忍実行委員長(沖国大教授)は、同町が90年、全国で初めて沖縄陸軍病院南風原壕群を町文化財に指定し、2007年には同壕群20号を公開した取り組みに言及。その上で「南風原町の取り組みや沖縄平和ネットワークの活動、県内の戦跡ガイドの活動を県内外に発信する機会になる」と語った。
 実行委は98年以降、県内で戦跡をガイドする団体が年々増える中、大会が横のネットワークを構築するきっかけになると期待する。
 大会には戦争遺跡保存全国ネットワークに加盟する長野県の「松代大本営の保存をすすめる会」「日吉台地下壕保存の会」など49団体から関係者が参加する予定。
 期日は6月19日から3日間。シンポジウムは「戦争遺跡の保存・活用の現状と課題」がテーマ。分科会は「平和博物館と次世代への継承」など3分科会を設ける。主催は南風原町、同全国ネットワーク、沖縄平和ネットワーク、南風原ガイドの会。(高江洲洋子)

 琉球新報 2010年1月21日
 http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-156002-storytopic-5.html 
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信濃毎日新聞 2010年1月20日 日韓併合100年、長野の有志ら交流イベント計画

日韓併合100年、長野の有志ら交流イベント計画

20100120_2 2月の「つどい」に向けて、日韓併合について議論する長野市などの有志ら

 第2次世界大戦の戦跡調査などを通じて韓国・済州島と交流している県内の有志らが2月21日、同島の旧日本軍遺構を調べている趙誠倫(チョソンユン)・済州大教授を招いて「友好・連帯のつどい」を長野市内で開く。8月の日韓併合100周年に向けた交流行事の一環。メンバーたちは「新しい100年の出発の年。平和友好の輪を広げたい」と話している。

 大戦末期、本土決戦に備えて長野市には松代大本営地下壕(ごう)が掘られ、済州島は要塞化が進められたことを縁として市民交流を進めている元高校教諭の板倉弘実さん(79)=長野市川中島町=らが企画。呼び掛け人には、同地下壕の保存運動や憲法9条の会、労働組合の関係者ら二十数人が加わっている。

 日韓併合条約(1910年)が公布された8月29日に合わせて、日韓近現代史を学ぶ講演や文化行事を市内で開く予定だ。憲法や文学、朝鮮戦争といったテーマ別に実行委員会をつくって準備を進める。韓国紙の記者や日本の大学教授らからも参加の内諾を得ているという。最初の取り組みとなる今回は、趙教授が済州島の戦跡と平和教育について講演する。

 同地下壕の保存運動などをしている「松代大本営の保存をすすめる会」などの活動に参加してきた板倉さんは「平和友好の流れが太くなっていくよう、個人の資格で多くの参加を呼びかけたい」と話している。

 つどいは午後1時半から、同市県町の県高校教育会館。趙教授の講演の後、県内のアマチュア奏者らでつくる室内アンサンブル「カメラータ・ナガノ」の演奏と参加者の意見交換がある。参加費は700円(高校生以下無料)。

 信濃毎日新聞 2010年1月20日 
 http://www.shinmai.co.jp/news/20100120/KT100119SJI090010000022.htm
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2010年1月13日 (水)

東京新聞千葉版 2010年1月10日 赤れんが 保存へ 旧県血清研究所 来月6日、市川でシンポジウム

赤れんが 保存へ 旧県血清研究所 来月6日、市川でシンポジウム

旧県血清研究所の敷地内に残る赤れんがの建物

20100110

 二〇〇二年、血清ワクチンの製造を停止し、半世紀を超す歴史に幕を下ろした市川市の県血清研究所。敷地内にあり、明治期に建てられたとされる赤れんがの建物を市民の手で守り、伝えていこうと「赤れんがをいかす会」が設立される。二月六日午後一時半から、同市の和洋女子大学で設立シンポジウムを開き、建物の保存と活用方法を探っていく考えだ。 (林容史)

 赤れんがの建物は研究所の「七号館」と呼ばれた倉庫棟。二階建てで一階は冷蔵庫、二階は倉庫として使われた。研究所が発行した「千葉血清五十年史-半世紀の航跡」によると、一九〇四(明治三十七)年に軍が建築したとされる。

 研究所の建物は倒壊する恐れがあり、周辺には学校もあることから、県は敷地内への立ち入りを禁止している。このため、建物の存在は市民にほとんど知られてこなかった。

 昨年七月に「いかす会」の準備会関係者らが県に頼んで建物を見学。参加した建築の専門家からは「明治期のれんが建築として、また戦跡としても貴重」という声が上がったという。

 準備会代表の吉原廣(ひろし)さん(60)は「全国的にも珍しく、市民にとって価値がある。壊してしまうのはもったいない」と訴える。「劇場や展覧会場など、市民の文化活動の拠点として活用できるのでは」と提案する。

 会には市民団体の関係者や建築家、歴史家、大学教授らが参加。設立シンポジウムでは元研究所職員も招き、赤れんがの特徴や建築史的な意義、利用方法について語り合う。

 会の設立後は機関紙の発行、全国の赤れんが建築の見学会などを行いながら、県と市に保存を働き掛ける方針。吉原さんは「行政任せではなく、市民を巻き込んで、おもしろい活動にしていきたい」と張り切っている。

 研究所の敷地をめぐっては、市川市が二〇〇七年九月、堂本暁子前知事に取得したいと伝えた。近くのスポーツセンターを拡張し、テニスコートなどを造成する計画だ。

 市企画・広域行政担当の大津政雄マネジャーは「有効利用できる魅力ある土地。市民のニーズや財政状況を勘案して対応を検討する」と話す。

 県は来年度、敷地内で土壌汚染の有無を調査する方針。問題がなければ県の内部で利用法を検討し、市と売買価格などの交渉に入ることになりそうだ。

 シンポジウムの問い合わせは準備会の尾崎さん=(電)047(374)1755=へ。

 東京新聞千葉版 2010年1月10日
 http://www.tokyo-np.co.jp/article/chiba/20100110/CK2010011002000118.html
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2010年1月 6日 (水)

毎日新聞愛知版 2010年1月4日 名古屋空襲:65年で作品募集--戦争と平和の資料館ピースあいち /愛知

名古屋空襲:65年で作品募集--戦争と平和の資料館ピースあいち /愛知

 ◇絵画、紙芝居/体験記/詩、書、戯曲など

 名古屋市名東区よもぎ台の「戦争と平和の資料館ピースあいち」は、1945年の「名古屋空襲」から65年を迎えることから、名古屋空襲を伝える作品を募集している。同館は開館3周年記念の企画として、名古屋空襲をテーマにした展示会や追悼集会などを行う予定で、募集した作品は3月23日~4月24日に展示する。

 募集するのは、▽絵画や紙芝居(縦横約90センチまで、画材は問わない)▽体験記(400字詰め原稿用紙4枚以内)▽詩、俳句、短歌、書、歌、戯曲など--の3種類。いずれも名古屋空襲に関連することが条件。

 作品展の来館者アンケートなどを参考にして、3種類の作品の中から優秀作品をそれぞれ一つずつ選び、5月に開く開館3周年イベントで発表する。応募者全員に記念品を贈呈する。

 ピースあいちの野間美喜子館長は「名古屋空襲を後世に伝えるものは少なく、知らない人も増えてきた。作品の上手下手は問わないので、ぜひ応募を」と呼びかけている。

 応募は2月末まで。1人何点でも応募可。問い合わせはピースあいち(電話052・602・4222)【稲垣衆史】

 毎日新聞愛知版 2010年1月4日
 http://mainichi.jp/area/aichi/news/20100104ddlk23040068000c.html
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2009年12月12日 (土)

東京新聞川崎版 2009年12月7日  『実物を見て考えたい』 高校生が研究発表 川崎市平和館「戦争展」

『実物を見て考えたい』高校生が研究発表平和館「戦争展」

 戦争遺跡の保存活用を通じ平和を考えようと、川崎市平和館(中原区木月住吉町)で五日から開かれていた「平和のための戦争展」で六日、研究発表とシンポジウムがあり、専修大付属高校(東京都杉並区)の生徒たちは、平和の象徴とされるハトについての研究から「ハトと平和は結び付かない」と意見を述べた。 (加賀大介)

 日本軍の謀略作戦拠点だった登戸研究所(多摩区)や、連合艦隊司令部が置かれた日吉台地下壕(ごう)(横浜市港北区)などの保存を求める市民らの実行委員会が主催。実行委に同校関係者がいたことから、歴史社会研究会の三年生八人が参加した。

 夏ごろから、ハトの生態、日本人とのかかわり、古典文学での扱われ方などを調査。発表では、聖書の記述やピカソのポスターから世界的に平和の象徴のイメージが広まったとした。しかし、日本では古来「神の使い」「戦勝のしるし」とされ、日本軍が伝令用に使ったことも知り、「ハト=平和」とは考えられないと結んだ。

 生徒たちはシンポジウムにも参加。明治大が平和教育に役立てようと、来年三月オープンを目指して整備を進める登戸研究所資料館の取り組みなどに耳を傾けた。研究会会長の桑野結さん(18)は「祖母から戦争体験を聴いたが、書物の知識とはリアリティーが違う。資料館にも足を運び、実物を見て戦争を考えてみたい」と話した。

 展示では、登戸研究所でつくられた偽造中国元紙幣の実物や風船爆弾模型、当時の写真など約二百点の資料が紹介された。

 東京新聞川崎版 2009年12月7日
 http://www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/20091207/CK2009120702000064.html 
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神奈川新聞2009年12月5日 戦争の悲惨さ語り継げ、遺跡保存へ企画展/川崎市平和館

戦争の悲惨さ語り継げ、遺跡保存へ企画展/川崎市平和館

20091205 写真などの資料が数多く並ぶ戦争展=川崎市平和館

 川崎と横浜の両市にある戦争遺跡の保存継承を通じ、戦争の悲惨さと平和の尊さについて考える「川崎・横浜 平和のための戦争展」が5日、川崎市中原区木月住吉町の市平和館で始まった。6日まで。

 両市で戦争遺跡の保存に取り組む市民らで組織する同展実行委員会の主催で、17回目。川崎市後援。

 今回のテーマは「戦争遺跡を地域の文化財に」。旧陸軍の登戸研究所(同市多摩区)、旧海軍の蟹ケ谷地下壕(同市高津区)、日吉台地下壕(横浜市港北区)といった両市に残る戦争遺跡に関する写真資料など約200点が展示されている。

 かつて登戸研究所で作られたとされる風船爆弾の模型や偽札のほか、1945年4月15日の川崎大空襲など戦争体験を市民が描いた絵も並んでいる。

 川崎市中原区から訪れた自営業の女性(65)は「よく行く登戸に旧陸軍の研究所があったと知ってとても驚いた。2度と、戦争という同じ轍を踏まないでほしい」と話していた。

 6日は、高校生や若手研究者らによる発表会「戦争の記憶をどう引き継ぐか」が午前10時から、実行委員会代表の姫田光義中央大学名誉教授らによるシンポジウム「戦争遺跡をいかす平和ミュージアム」が午後1時から催される。展示は午前9時~午後4時。問い合わせは実行委員会電話080(2030)5193。
 神奈川新聞 2009年12月5日
 http://news.kanaloco.jp/localnews/article/0912050027/
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2009年10月26日 (月)

産経新聞関西版 2009年10月25日 故郷で―安らかに 「特攻勇士の像」除幕式 大阪護国神社

故郷で―安らかに 「特攻勇士の像」除幕式 大阪護国神社

20091025  太平洋戦争で特攻隊員として命をささげた若者たちを慰霊・顕彰しようと、「特攻勇士の像」が大阪護国神社(大阪市住之江区南加賀屋1)に建立され、24日、除幕式が行われた。

 全国に像を建立する活動を続けている「特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会」と「日本人の心を伝える会」が、旧陸軍士官学校生や幹部自衛官OBらで組織する「近畿偕行会」に協力を依頼。偕行会が集めた募金約200万円などをもとに、隊員の若者をモデルにしたブロンズ像が完成した。

 偕行会の野上五夫会長は「隊員が示した崇高な日本人の心を後世に伝えたい」と話している。

 伝える会は鎮魂歌を集めたCDを販売した利益や、地元有志らの寄付などをもとに、これまで福井、東京など今回を含め全国8カ所の神社に像を奉納。終戦65周年の来年は、新たなCDの発売を予定している。同会の冨田和夫代表は「隊員が故郷で安らかに眠れるよう、また遺族が身近なところで花を手向けられるように、今後も各地の護国神社などに像を奉納したい」と話している。

 産経新聞関西版 2009年10月25日
 http://www.sankei-kansai.com/2009/10/25/20091025-016143.php
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毎日新聞兵庫版 2009年10月24日 ドキュメンタリー:戦争体験者の記憶、映像に 小野高放送部が制作 /兵庫

ドキュメンタリー:戦争体験者の記憶、映像に 小野高放送部が制作 /兵庫

 ◇生きた歴史を学ぶ--「平和ビデオコン」に出品

 県立小野高放送部の生徒たちが、戦争体験者の証言を集めたドキュメンタリー映像の制作を進めている。「体験者の貴重な証言を記録に残したい」と意気込んでおり、作品は全国の高校生が参加する「第6回高校生平和祈念ビデオ制作コンクール」に出品する。【大久保昂】

 小野高放送部では3年前から、歴史学習と映像制作の練習を兼ねて1年生が戦争を題材にした映像作品を作り、コンクールに応募している。今年は男女9人が先月から作業を進めており、顧問の大江真理教諭(45)は「試験のための勉強とは違う、生きた歴史を学んでほしい」と期待を込めている。

 コンクールの主催者が指定した三つのテーマから一つ選び、7~9分の映像にまとめるのが応募条件。生徒たちは、旧日本軍の在職期間が軍人恩給受給の条件に満たない「恩給欠格者」などに焦点を当てる「兵士の労苦」をテーマに選んだ。

 直接の体験者を見つけるのは容易ではないと考えた大江教諭は「見つからなければドキュメンタリーにこだわらなくてもいい」と助言した。しかし、生徒たちは、家族や知人の人脈をたどって元日本兵らを探し当てた。現在、休日や放課後に彼らの元へ足を運んで収録作業を進めている。

 今月4日には、加西市にあった旧海軍「鶉野(うずらの)飛行場」の元練習生たちが集まる「平和祈念の集い」に参加。県内外から集まった戦争体験者にインタビューを敢行し、特攻隊の体験談などを聞いた。飛行場の練習生らで編成した特攻隊「護皇白鷺隊」の隊員だった水川通さん(87)=岡山県倉敷市=は「多くの若者が鶉野から特攻へ出たことを忘れてはいけない。戦争を知らない世代にも伝えてほしい」とエールを送る。

 作品は11月末までに仕上がる予定。メンバーの高橋範行君(15)は「直接体験を聞いて、自分の知識は薄っぺらいと感じた。年々減っている体験者の記憶を映像に残したい」と話している。

 毎日新聞播磨・姫路版 2009年10月24日 
 http://mainichi.jp/area/hyogo/news/20091024ddlk28040377000c.html 
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朝日新聞千葉版 2009年10月24日 有毒発煙筒?61個

有毒発煙筒?61個

20091023

旧陸軍習志野学校跡地で見つかったあか筒らしき円筒=環境省環境リスク評価室提供

 環境省環境リスク評価室は23日、習志野市泉町の旧陸軍習志野学校跡地で旧日本軍の有毒発煙筒らしきものを61個発見した、と発表した。同室によると、すでに老朽化して機能は失われているとみられるが、内容物にヒ素が含まれているため、同省は、発見場所周辺の土壌などを調査するという。

 同室によると、発見されたのは直径約11センチ、長さ約21センチ程度の筒状のもの。旧日本軍が製造した「あか筒」と見られるという。

 あか筒は、筒状の容器にくしゃみ剤(あか剤)と加熱剤などを入れ、着火すると、くしゃみ剤が拡散する仕組みになっているという。くしゃみ剤は常温では固体で、熱を加えない限り拡散することはないとされる。

 同室では現在、ポリ袋で梱包(こん・ぽう)し、プラスチック製の密閉容器に入れて安全に保管しており、今後、適切に処分するという。

 同跡地からは、ほかにも多量の砲弾片などの金属が発見・回収されたことも発表された。

 朝日新聞千葉版 2009年10月24日 
 http://mytown.asahi.com/chiba/news.php?k_id=12000000910240003
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読売新聞 2009年10月24日 旧陸軍学校跡に有毒ガス発煙筒…千葉・習志野

旧陸軍学校跡に有毒ガス発煙筒…千葉・習志野

 環境省は23日、千葉県習志野市の旧陸軍習志野学校跡の空き地で、有毒ガス入りの発煙筒と見られる金属筒61個が見つかったと発表した。同校跡地で毒ガス兵器と見られるものが発見されたのは初めて。

 金属筒は直径約11センチ、長さ約21センチで、深さ約50センチ~1メートル20センチの地中に埋まっていた。形状から「くしゃみ剤」が詰められた発煙筒と見られるが、爆発する恐れはなく、これまでの土壌調査で有害物質は検出されていない。すでに密封容器に移されており、今後処分される。

 同学校では、戦時中に毒ガス戦の訓練が行われていたという。同省は2003年度から旧軍施設跡地で毒ガス兵器の調査を行っている。

 読売新聞 2009年10月23日20時22分
 http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20091023-OYT1T01040.htm
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毎日新聞 2009年10月24日 有害発煙筒(注:毒ガスあか弾):61本を発見 旧陸軍習志野学校跡地から

有毒発煙筒:61本を発見 旧陸軍習志野学校跡地から

20091024 土中から掘り出された有毒発炎筒=環境省提供

 環境省は23日、千葉県習志野市にある旧陸軍習志野学校跡地の土中から、旧軍が作ったとみられる有毒発煙筒61本を発見したと発表した。

 同省によると、見つかったのは旧軍で「あか筒(とう)」と呼ばれていた発煙筒とみられ、直径約11センチ、長さ約21センチ。発生する煙には有毒な有機ヒ素化合物の一種が含まれているが、爆発する可能性はなく、現在は密封容器に入れて安全に保管しているという。同省は地権者の依頼を受けて地中の埋設物を調査していた。今後、念のため土壌調査も実施する。【荻野公一】

 毎日新聞 2009年10月23日 20時20分(最終更新 10月23日 23時26分) 
 http://mainichi.jp/select/jiken/news/20091024k0000m040068000c.html 
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毎日新聞 2009年10月26日 訃報:鹿野琢見さん90歳=弁護士、弥生美術館理事長

訃報:鹿野琢見さん90歳=弁護士、弥生美術館理事長

 鹿野琢見さん90歳(かの・たくみ=弁護士、弥生美術館理事長)23日、肺炎のため死去。葬儀は28日午前11時、東京都荒川区町屋1の23の4の町屋斎場。喪主は長男元(げん)さん。

 第二東京弁護士会副会長などを務めた後、東京都文京区に挿絵画家・高畠華宵のコレクションを展示する弥生美術館をはじめ、竹久夢二美術館、立原道造記念館を設立した。

 毎日新聞 2009年10月25日 18時37分
 http://mainichi.jp/select/person/news/20091026k0000m060029000c.html
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※鹿野さんの運営されている弥生美術館前に、東大医学部出身者の戦没者の記名碑がある。その建設にあたり、鹿野さんの協力があったという。

2009年10月18日 (日)

毎日新聞福岡版 2009年10月16日 寄贈:戦艦・金剛の軍艦旗、飯塚市に--乗組員遺族の田川さん /福岡

寄贈:戦艦・金剛の軍艦旗、飯塚市に--乗組員遺族の田川さん /福岡

◇太平洋戦争中、台湾海峡に沈没

 太平洋戦争中、台湾海峡に沈没した戦艦・金剛に掲げられていた軍艦旗が15日、乗組員の遺族から、飯塚市に寄贈された。市歴史資料館は「沈没した軍艦旗が残ることは非常にまれで、貴重な資料」と話している。

 金剛は多くの作戦に参戦し、1944年11月にアメリカ軍の潜水艦の魚雷攻撃で沈没した。船首に掲げられていた軍艦旗は、飯塚市伊岐須の田川紀子(としこ)さん(67)の義父・吉郎さん=79年に74歳で死去=が沈没寸前に持ち出した。

 戦後、吉郎さんと親交があった同市の元海軍飛行兵、古賀照生さん(80)によると、吉郎さんは「お国のために天皇の旗を守ったんだ、と幸せな気持ちだった」と話していたという。旗を奪われることは敗戦を意味していたからだ。

 吉郎さんは旗を腹に巻いて海に飛び込んだが、中国の捕虜となり、旗も取り上げられた。「2、3日眠れなかった」と話していたという。

 旗は61年、台湾から田川さんに返還され、嘉飯山地域の旧海軍OB会・黒潮会が管理、全国の旧海軍の集まりに貸し出していた。だが、高齢化などで黒潮会は解散。旗は田川さんの地元の飯塚市に寄贈することになった。

 市歴史資料館の黒河健二郎館長は「戦争の悲惨さや時代背景を考える貴重な資料。毎年8月、戦争に関する企画展などで紹介していきたい」と話している。【伊藤奈々恵】

 毎日新聞筑豊版 2009年10月16日 
 http://mainichi.jp/area/fukuoka/news/20091016ddlk40040424000c.html
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2009年10月11日 (日)

朝日新聞京都版 2009年10月9日 戦争遺跡 見て歩こう

戦争遺跡 見て歩こう

20091009

さびているが新しい電気柵などとともに、獣害防止網の足元を固める飛行場の金網=福知山市市寺

 獣害防止柵になった旧海軍飛行場の金網

 太平洋戦争末期、福知山市石原に建設された旧海軍飛行場で使われた金網が獣害の防止柵(さく)として再利用され、いまも市内各地に残っている。中丹地方の戦争遺跡を調査する「中丹地域の歴史と文化を掘りおこす会」は11日、こうした戦争の「痕跡」をたどるフィールドワークを行う。

 金網は旧海軍飛行場の滑走路や誘導路の地盤固めに利用されていたが、同市市寺地区の田畑では、いまもシカよけ用の網に使われている。近くの塩見一重さん(81)によると、食糧増産が求められた戦争直後、農家は田畑の作物を食い荒らすイノシシの害に悩まされていた。夕方や夜にアセチレンガスで爆発音を発生させて追い払おうとしたが、あまり効果はなかったという。

 そこで農家の人たちが思いついたのが、使われなくなった旧飛行場の金網の活用だった。1946年夏ごろ、市内の市寺や室など各地区の住民が共同で金網を運び、イノシシの出る山に張り巡らせたという。塩見さんは「金網の活用は役所に米を渡して話をつけた。みなで1メートル幅に切った金網を背負って山に運び、くいを打ってくぎや針金で止めた。暑い中での作業だった」と振り返る。

 「掘りおこす会」のフィールドワークは、当日午後1時半、同市篠尾の浄願寺駐車場に集合。戦時中に飛行機を製造した疎開工場や、飛行場の金網を使った柵などを見て歩く。参加費300円(学生・中高生無料)。問い合わせは、同会の大槻さん(0773・49・0628)へ。

 朝日新聞京都版 2009年10月9日 
 http://mytown.asahi.com/kyoto/news.php?k_id=27000000910090002 
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2009年10月 6日 (火)

毎日新聞兵庫版 2009年10月5日 平和祈念の集い:旧海軍飛行場の記憶、風化させまい--加西・鶉野 /兵庫

平和祈念の集い:旧海軍飛行場の記憶、風化させまい--加西・鶉野 /兵庫

 加西市鶉野町にあった旧海軍「鶉野(うずらの)飛行場」の記憶を語り継ぐ平和祈念の集いが4日、飛行場跡地にある「鶉野平和祈念の碑苑」前であった。元練習生ら約50人が県内外から参加し、戦没者の冥福を祈っていた。

 鶉野飛行場は海軍のパイロット養成などの場として44年5月に完成。練習生の一部は特攻隊員となって命を落とした。

 飛行場の記憶を風化させまいと、元練習生や地元住民らが99年に平和祈念の碑を建立し、毎年10月に慰霊祭を開催してきた。しかし、戦時を知る関係者が少なくなり、今回から規模を縮小した「集い」に変更した。

 この日、参加者は戦没者の名前を刻んだ石碑に手を合わせ、戦時中の思い出を語り合うなどして仲間をしのんだ。同期生を特攻で失ったという元練習生、水田稔さん(84)=岡山県倉敷市=は「彼らの死を無駄にしないために、平和の尊さを伝え続けたい」と話していた。【大久保昂】

 毎日新聞播磨・姫路版 2009年10月5日 
 http://mainichi.jp/area/hyogo/news/20091005ddlk28040209000c.html
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2009年10月 5日 (月)

読売新聞福岡版 2009年10月4日 大刀洗平和記念館開館

大刀洗平和記念館開館

200910031 【写真説明】戦時資料に見入る来館者ら

 筑前町が整備した「町立大刀洗平和記念館」が3日、開館した。「東洋一」の規模と言われた旧日本陸軍大刀洗飛行場に関連する約1800点の資料を展示した施設で、開館式には約200人が出席した。初日だけで約2000人が来場し、関心の高さを示した。

 記念館は、国道500号を挟んで斜め前にある私設の旧大刀洗平和記念館を継承して公営化。戦闘機や零戦の実物など約3000点を収蔵しており、機体や特攻隊員の遺書、手紙など約1800点を常設する。

 式では旧記念館を1987年から守り続けた渕上宗重さん(77)(朝倉市甘木)らに田頭喜久己町長が感謝状を贈呈した。田頭町長は「戦後64年がたち戦争の事実が風化しつつある。過去の歴史を教訓に平和の大切さを伝えていきたい」とあいさつ。来賓の麻生知事は「平和の大切さを語り継ぎ、次の日本の進路を考える基礎にしたい」と祝辞を述べた。

 45年3月の大空襲を経験したという田代富佐子さん(72)(同)は「自分の言葉でしっかり孫たちに戦争の真実を伝える覚悟が生まれた」と話していた。

 読売新聞福岡版 2009年10月4日
 http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/fukuoka/news/20091003-OYT8T01017.htm
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毎日新聞福岡版 2009年10月4日 大刀洗平和記念館:開館 特攻や大空襲の悲劇展示 出撃兵、慰問女性と再会

大刀洗平和記念館:開館 特攻や大空襲の悲劇展示 出撃兵、慰問女性と再会 /福岡

 3日開館した筑前町の大刀洗平和記念館には、世界でここだけに残る旧陸軍の九七式戦闘機と旧海軍の零戦三二型機など、貴重な機体が展示されている。また、1945年3月27日、飛行場が空襲を受け、小学生ら31人が死亡した「大刀洗大空襲」の悲劇を語り継ぐコーナーもある。【扇沢秀明】

 同町では、87年から、渕上宗重さん(77)が私設の平和記念館として運営してきた。05年の旧三輪町と夜須町の合併を契機に、町立の記念館が建設された。

 開館式は午前10時からあり、田頭喜久己・同町長が「戦争の事実が風化している。記念館で戦争の悲惨さ、平和の尊さを伝えていきたい」とあいさつ。訪れた人たちは早速、飛行服や戦時中の教科書、戦意高揚用のすごろく、出撃前の特攻隊員の写真・遺書などをじっくり見学していた。

 「お元気でなによりです」。45年5月25日、大刀洗飛行場から出撃し、生還した元特攻隊員の花道柳太郎さん(84)=和歌山県日高町=と、飛行場近くに住み、花道さんの出撃前に慰問文を送った倉知ミツ子さん(81)=筑前町長者町=が、開館式で再会した。

 倉知さんは当時夜須村役場に勤め、飛行場に慰問に行った。そこで花道さんと出会い、花道さんに特攻機を案内してもらったという。85年に大刀洗飛行場の歴史を調べていた作家の紹介で再会し、その後も連絡を取っている。

 倉知さんは「飛行機を見せてくれたのを花道さんは覚えてない、と言うんですよ」と笑う。2人は記念館を見学し、かつての飛行場の姿を思い出し、改めて平和の尊さをかみしめていた。

 毎日新聞福岡版 2009年10月4日
 http://mainichi.jp/area/fukuoka/news/20091004ddlk40040252000c.html
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共同通信 2009年10月3日 大刀洗平和記念館がオープン 旧陸軍拠点の飛行場跡に

大刀洗平和記念館がオープン 旧陸軍拠点の飛行場跡に

20091003【写真説明】大刀洗平和記念館がオープン、97式戦闘機を見る見学者たち=3日午前、福岡市筑前町

 西日本最大規模の旧陸軍の航空拠点だった大刀洗飛行場の歴史を伝える大刀洗平和記念館が3日、福岡県筑前町の飛行場跡地にオープンした。

 1919年に完成した同飛行場には航空部隊のほか、パイロットを養成する飛行学校も置かれ、特攻隊員となった卒業生も多い。45年3月の空襲で壊滅的被害を受け、多くの犠牲者を出した。

 同館の主なテーマは(1)大刀洗飛行場の概要と航空技術(2)当時の人々の生活(3)空襲と特攻隊―など。96年に博多湾から引き揚げられた97式戦闘機や、特攻隊員が家族にあてた手紙など約1800点を展示している。

 合併で2005年3月に誕生した筑前町が記念事業として建設。町内にあった民間の平和記念館から展示品を引き継いだり、独自に収集したりした。

 午前10時からの開館式後に訪れた同県朝倉市の田代富佐子さん(72)は7歳の時に空襲を体験。「つらい経験だが、数年前から若い世代に伝えなければならないと思うようになった。開館を機に、多くの人に平和について考えてほしい」と話した。

 共同通信 2009年10月3日
 http://www.47news.jp/CN/200910/CN2009100301000290.html
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2009年10月 3日 (土)

毎日新聞東京夕刊芸能面 2009年10月1日 ビデオ・DVD:戦争遺跡

ビデオ・DVD:戦争遺跡

 8月15日が過ぎると、メディアから反戦報道は激減する。反戦の意識が消えることはないのだろうが、ニュースはあくまで「ニュー」を追うものなのだ。受け手の意識下まで焼き付くメッセージは、やはり芸術、ないしは芸術的な表現に負うところが大きい。

 このDVDは、第二次世界大戦で使われた日本の砲台、兵舎、さらには発電所、毒ガス貯蔵所、魚雷発射試験場などの映像集。田中昭二のカメラは、そこに残る「気」までとらえるように静謐(せいひつ)で厳かであり、木や草の緑にからめとられた建造物の廃虚をタイトル通り「遺跡」まで深化させる。資料的な情報も欲しかったが、鳥肌の立つようなメッセージは、ざくりと心に刺さる。(マジカル)【川】

 毎日新聞東京夕刊 芸能面 2009年10月1日
 http://mainichi.jp/enta/geinou/news/20091001dde012070031000c.html
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2009年10月 1日 (木)

共同通信配信 2009年9月30日 福岡の大刀洗飛行場跡地に記念館 旧陸軍の航空拠点

福岡の大刀洗飛行場跡地に記念館 旧陸軍の航空拠点

20090930【写真説明】大刀洗平和記念館の展示物を見る、旧陸軍特別幹部候補生の男性ら=9月17日、福岡県筑前町

 戦時中、旧陸軍の航空拠点として西日本最大の規模を誇り、米軍の空襲で多くの犠牲者が出た大刀洗飛行場の歴史を伝えようと、福岡県筑前町が飛行場跡地に建設した大刀洗平和記念館(同町高田)が、10月3日にオープンする。

 敷地面積は約8800平方メートルで、飛行機の格納庫をイメージした外観。1996年に博多湾から引き揚げられた97式戦闘機など約1800点を展示する。大刀洗で訓練を受けた元兵士らは「そういう時代があったことを知ってほしい。そして二度と戦争をしてはいけない」と訴えている。

 飛行場は19年に完成。航空部隊のほか、40年からは飛行学校が置かれ、パイロットを養成した。陸軍の特攻隊員のほぼ3分の2が卒業生といわれている。

 新潟市の駒井亮一さん(83)も飛行学校出身の一人。陸軍特別幹部候補生(特幹)に志願し、44年4月に17歳で入校。4カ月間、パイロットの基本教育を受けた。グライダーを使った訓練などが主で、休日や外出は一切なく、鉄拳制裁も当たり前。それでも「極限に近い体験は、戦後の生活で落ち込んだ時に心の支えになった」と振り返る。

 その後、熊本、岐阜の教育隊に転属。シンガポールに向かう途中の台湾沖で、艦船が魚雷攻撃を受け、漂着した台湾で終戦を迎えた。

 共同通信 2009年9月30日
 http://www.47news.jp/CN/200909/CN2009093001000777.html 
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